高林寺(緒方洪庵の墓、織田家の墓)⇒養源寺(安井息軒の墓、稲葉正勝の墓)⇒あさ香社跡(案内板のみ)⇒吉祥寺榎本武揚の墓、赤松大三郎の墓、二宮金次郎の墓)⇒六義園(旧柳沢邸庭園)⇒古河庭園(旧陸奥宗光邸庭園)⇒西ヶ原一里塚(都内唯一の原形保存一里塚)⇒飛鳥公園(渋沢庭園・渋沢資料館)
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緒方洪庵の墓(高林寺)
緒方洪庵は、備中足守の藩士の子に産まれました。大阪や江戸、長崎で医学・蘭学を学び、天保9年大阪で適々斎塾(適塾)を開業。大村益次郎、橋本佐内、福沢諭吉、大鳥圭介などを世にだしました。文久3年に喀血して亡くなりました。
二宮金次郎の墓(吉祥寺)
1787年~1856年。尊徳。酒匂川の洪水で家財を失い一家離散。その後伯父に引き取られ仕事の余暇に勉学に励んだ姿が、有名な銅像になっています(写 真の右側)。藩家老に仕え、家政の改革や分家の領土荒廃を復興しました。また豊かな農業知識と合理的思考で関東各地の村を救済し、自力更生に努めました。 老中・水野忠邦に見出され、幕府から日光神領90ヵ村の復興開発の依頼を受けましたが事半ばで病死。
榎本武揚の墓(吉祥寺)
1836年~1908年。昌平学、長崎海軍伝習所卒業後、築地海軍操練所教授、オランダ留学を経験しました。戊辰戦争では、開陽丸を含む艦隊を率いて戦い ましたが、暴風雨で座礁するなど不運に見舞われました。函館五稜郭で最後まで抗戦しましたが、明治2年5月に降伏。黒田清隆の助命嘆願後、明治34年には 「痩我慢の説」を時事新聞に発表しています。
六義園
ここは徳川綱吉の時世に御側用人として権勢を誇った柳沢吉保の下屋敷でした。京都の桂離宮庭園の様式を取り入れた回遊式築産泉水庭園で、元禄期の代表的な 江戸大名庭園です。池の東側には六義館と呼ばれた下屋敷があり、柳沢吉保は56歳の生涯をここで閉じました。その後子孫が幕末まで所有していましたが、明 治11年岩崎弥太郎が買収し一時別邸として使用、岩崎家3代目・久弥が昭和13年に東京市に寄付しました。
旧古河邸庭園跡
陸奥宗光の邸宅跡。陸奥は新政府で外務大臣、農・商務大臣として活躍しました。その後、元小野組番頭で鉱山王・古河一兵衛が譲り受けてのり古河邸となりま した。この庭園の特徴は武蔵野台地の起伏を生かし、台地上に洋館と様式庭園を、低地に日本式庭園を配置したことです。ルネサンス風の洋館と様式庭園は鹿鳴 館を設計したコンドルの手によるものです。
西ヶ原一里塚
西ヶ原一里塚は御成り街道二番目の一里塚です(一番目は本郷追分)。江戸幕府は五街道脇に、一里(約4km)ごとに榎を植え左右に一里塚を作りましたが、 元禄以降はあまり手入れがされてなかったようです。都内には18ヶ所の一里塚があったといわれていますが、現在完全な形で元の位置に保存されているのは、 ここだけです。
渋沢庭園(飛鳥山公園)
本郷台地の北端部分にあたる飛鳥山にあります。渋沢栄一は明治34年頃から晩年まで飛鳥山の邸宅に住んでいました。邸宅跡は資料館として公開されてきましたが、近年飛鳥山公園整備事業の一環として渋沢資料館が新たに作られました。